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第35回  復活の証人ペトロ ヨハネ21章

イエス様の一番弟子にシモン・ペトロがいます。シモン・ペトロはガリラヤ湖の漁師をしていた時に、イエス様から「わたしについてきなさい」(マタイ4:19)と声をかけられ。弟子となった人です。シモンは、イエス様からペトロと言う名前を付けられました。それは、シモンが初めてイエス様に対して「あなたこそ、生ける神の御子キリストです。」と、告白したからでした。イエス様こそ真の救い主であると告白したゆえに、その信仰の上に教会を建てますといわれ、ペトロ岩という名前をつけられたのです。(マタイ16:18)

しかしその教会のリーダーとなっていたペトロは、心が揺れた人でもありました。

それは、イエス様の十字架を前にした時の出来事です。ある女の人たちから、「あなたはイエスと一緒にいたでは」また、「あの連中の仲間だ」といわれると、恐ろしくなって。「イエス様のことを「知らない」と否定します。(ルカ22:57)

ペトロは、イエス様に「牢に入って死んでもかまいません。命まで捨てます」(ルカ22:33)と言っていたのに、イエス様のことを知らないと言ったのです。イエス様はそんなペトロのことを見抜いていて、「あなたは、鶏が鳴く前に3度わたしを知らないというだろう」と預言していました。その通りに、ペトロは、イエス様を3度、知らないと言い、その後に鶏が鳴いたのです。そして、ペトロ自分の情けなさに、外に出て「激しく泣いた」と書いてあります。(ルカ22:34)

そんな弱さを持つペトロに復活のイエス様が言われたことは「わたしを愛するか」という言葉でした。英語の聖書では「Do you love me?」です。イエス様は、ペトロに3度も「Do you love me?」と問われるのです。聖書は、神様からのラブレターといわれます。聖書を読めば、神様が私達を愛している事が書かれてあるのです。愛とは、一方通行ではないと思うのです。心が通じ合うことが愛なのではないでしょうか。イエス様から「Do you love me?」と問われた時に私たちは何と答えますか?ペトロは「I love you」と答えました。確かにペトロの「I love you」は不完全なものでしたが、応答しました。イエス様は、私達の応答を待っておられるのです。これが生きた関係なのです。私達の愛は不完全なものであります。ちょっとしたことでコロコロ変わるものです。しかし、神様の愛は変わらない愛です。それが表されているのが十字架の愛です。私達は、十字架で命をかけてまで愛して下さる神様の愛に支えられているのです。

 

第34回 復活の証人マリア

イエス様の復活の証人の第1番目は、マグダラのマリアです。マグダラというのは、ガリラヤ湖半の地名で、マグダラに住んでいたマリアのことを言います。

1、イエス様は女性を用いられる。〜弱さを用いる

マリアは、女性であった。聖書の時代の女性は、結婚前は、父親、結婚後は夫の所有物として一人の人格として認められていませんでした。(マルコ644)しかし、イエス様の弟子には、12弟子以外にも女性の弟子がいて、(ルカ8:2〜3)その女性達がイエス様の十字架の側にいたのです。(ルカ23:49)そして、イエス様が死んで3日目に遺体に香料を塗るために墓に行きました。(ルカ24:10)イエス様は、女性の価値をご存知で用いて下さるのです。

2、罪人を用いられる。(ルカ8:2)

マグダラのマリアは、イエス様から、7つの悪霊を追い出していただいた。とあります。そのような体験から、イエス様を救い主と信じて従っていったのでしょう。自分の罪に気づき救いの喜びに溢れた人を用いて下さいます。

3、死から復活〜復活の証人

墓の中にイエス様の遺体はなく、遺体を巻いていた亜麻布だけが置いてありました。マリアは、イエス様の遺体を誰かが盗んだと思って泣いていました。(ヨハネ20:11)イエス様が死んだだけでも悲しいのに、更に遺体までなくなっていることにショックを受けたのでしょう。このように悲しみに悲しみが重なることはあるのです。どうしてこのように次ぐ次と問題がおこるのか。途方に暮れることがあります。

そのような悲しみの中にあるときに、イエス様は、「マリア」と名前を呼ばれました。名前は、その人の全存在を表します。神様は、私たちの全てを知っておられ、私たちが座るのも何をしていることもご存知だと書いてあります。(詩篇139編)。声をかけられたマリアは、「わたしは主を見ました」と弟子たちに告げて行きます。復活のイエス様に出会ったマリアは、復活の証人としての使命に立って行きます

 

第33回 復活 ヨハネ20章19節 

イエス様が十字架に架かられた後、イエス様の弟子たちの様子はどうだったのでしょうか?ヨハネ2019節には、「ユダヤ人を恐れて」とあります。自分たちの師であり、イスラエルの王となってくれると期待していたイエス様が、十字架刑にかけられたのです。そして、今度はその弟子である自分たちも同じ十字架にかけられるのではという不安の中にありました。また、「鍵をかけていた」とあります。人間は、恐怖に会うと人を信じられなくなり、心の鍵をかけてしまうこともあります。弟子たちは、恐れに包まれていました。

「恐れ」は、私たち一人一人にも当てはまることです。人間関係の出来事や、また現在では、テレビ、インターネットから、SNSなどの情報から「恐れ」が生じてくるのではないでしょうか。

イエス様は、「恐れ」ている弟子たちに現れ、「シャローム」と声をかかられました。

ヘブライ語で「シャローム」という言葉は、イスラエルのあいさつの言葉で「こんにちは」という意味です。また、「シャローム」(平和・平安)という言葉は、何もない無の状態ではなく、困難がある中での平和なのです。世界の中で一番紛争の合った歴史を持ち、血が流された場所での平和なのです。

イエス様は「こんにちわ」と私達のところに来られるのです。「心配しなくていいよ。大丈夫だよ」と、私達の恐れを取ってくださり、平安を与えて下さるのです

 

 

第32回 クレネ人シモン(マルコ15:21)

クレネ人シモンは、イエス様の十字架を背負わされた人です。クレネとは、北アフリカに位置し、現在はリビア、古代都市として栄えたところです。クレネ出身のシモンは、過ぎ越しの祭にエルサレムに来ていたのでした。そして、イエス様の十字架刑に遭遇したのです。イエス様は、肉体的疲労でもう十字架を担げなくなっていました。十字架を背負えないと見た兵士は、たまたまそこにいた、シモンに無理やりに十字架を背負わさせます。突然イエス様の十字架を背負わなければならなくなったシモンの心境はどうだったでしょうか?

「一体どうなっているんだ」「どうして」「なぜ」「これからどうなるのだ」そのような思いが駆け巡っていたことでしょう。この「どうしてこのような目に」という思いは、誰にでも起こることではないでしょうか?突然の病気や、事故、家族の死、自らの境遇、自分の胸にしかしまっておかねばならないこと。「そんなこと考えてもしょうがないじゃないか」しかし、そのことにこそ、十字架の意味があるのです。イエス様は十字架上で「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。このイエス様の「なぜ」とも重なるのです。シモンに突然襲った十字架を背負うと言う出来事、私たちの悲しみや苦難。十字架を見上げる時に、私達と同じ苦難を負って下さったイエス様のことを思い出しましょう。わたしのこの痛みをわかってくださる方がおられるのです。

福島第1原発から、一番近い5キロの距離の大熊町に建っていた福島第1バプテスト教会の佐藤牧師は、被災し、50名余りの信徒と一緒に奥多摩福音の家と言うキリスト教のキャンプ施設で1年間の避難生活をして、現在は福真県いわき市に教会を建てて住んでいます。佐藤牧師は、日本全国だけでなく、世界を回ってあの日に何が起こったのかという講演をされています。涙ばかり出て、過ごした日々。100年持つと言われた会堂を2年で失ったこと。住む所、着る物、食べる物全てを失って、たくさんの方々に支えられて生きてきた日々。これからもどうなるのか分からない不安を抱えながら。しかしご自身は、「この日の為に自分は生まれて来たんだ」と確信されたということなのです。「苦しみの向こうに祝福がある」と語っておられるのです。

イエス様に出会って、イエス様の十字架を見上げる時に、苦しみの意味を知った牧師の生きざまが私たちに勇気を与えてくれます

 

第31回 十字架 船ぅ┘考佑僚住架の経緯

 イエス様逮捕のきっかけは、

^詑日に病気の人を癒したことからです。(マルコ3:6〜)ユダヤの社会の中で一番重要なことは、律法を守る事でした。(イスラエルの民は、アブラハムから始まります。やがて、エジプトで奴隷となったイスラエル民族は、モーセに率いられて、エジプトから脱出します。それから、荒野を40年放浪しなければなりませんでした。その時に与えられたのが十戒です。(出エジプト20章)そのゆえに十戒を守ることが民族として成り立つ基盤だったのです) イエス様が、安息日に病人を癒したことが、安息日に労働をしてはいけないという規定を破ることになり、律法違反となります。一方、病気を癒し、説教をし、奇跡を行うと言う事からユダヤの社会の中で評判になり人気者になっていきました。(待ち望んでいたユダヤの王〜マルコ113〜)

⊃静造任両η笋鬚靴討い襪海箸鮴気靴ないと怒られました。神殿を支配しているのは大祭司グループであり、暴利を得ていたのでした。(マルコ11:15〜)対立は深まります。

0詑日に癒しだけでなく、死んだ人をよみがえらせました(ヨハネ11:45〜)そのことが決め手となり、大祭司グループにより逮捕されました。夜中に開かれた不当な裁判は、一歩的で、罪状は、神を冒涜したと言う事でした。しかし、これで死刑になる要素がどこにあるのでしょう。(マルコ15:2、ヨハネ19:7)

 大祭司、律法学者、ファリサイ派、ヘロデ派などユダヤの社会で中心であった人たちはイエス様の事が気に入らなくなっていたのです。そのことを一言でいえば妬みと書いてあります。(マルコ15:16)

 律法主義(〜せねばならない生き方)はこの世的な生き方になり、そのことがイエス様を十字架につけることになって行ったのです。

 イエス様のこの世に来られた目的は、救い主としての目的の為です。イエス様は律法を違反したのではなく、律法の本当の意味を教え、律法を完成させに来られたのです。人間は、律法を完成させることはできません。(マタイ5章〜、ヨハネ9:41〜ヨハネ13:34愛による完成)〜人間は、神から離れ罪を持っている罪人なのです。そしてその罪は、購い(罪の身代わりのささげ物)によらなければ無くならないのです。 イエス様は、私達の罪の為に来られ、罪をあがなって下さったのです。まさに福音グッドニュースです。

 

第30回 ゲツセマネの祈り(マルコ14:32〜42)

ゲツセマネの祈りは、イエス様が十字架にかけられる前日の祈りです。

ゲツセマネというのは、油絞りという意味です。オリーブオイルを絞る場所だったのでしょう。20年程前にイスラエルに行った時にゲッセマネに行きました。そこには、教会が建っていて、隣にオリーブの木(樹齢2000年)が植えられている庭がありました。イエス様は、そこで最後の祈りをささげられました。

まず第1に、この祈りは痛みの祈りであったということです。十字架を前に自分の命が終わってしまうというところに立たされての苦しみの祈りです。痛みには肉体的苦痛と精神的苦痛があります。死はこの両方の痛みなのです。イエス様はこの痛みの中で祈られました。私たちが苦しんでいるとき、イエス様も一緒に苦しんでいてくださることを覚えましょう。イエス様は私達の痛みをわかって下さるのです。(ヘブル4:15)

2に、この祈りは、十字架の祈りなのです。自分の思いと神様の思いがぶつかる祈りなのです。イエス様は、自分の思いをささげました。この祈りは、自分の思いをささげる祈りなのです。今日も主の祈りを祈りましたが、この主の祈りの中で、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈りました。この祈りがゲッセマネの祈りと同じなのです。私達は、自分の願いを祈っていきますが、自分の思いをささげ、神様の御旨がなることを第一に求めたいものです。

イエス様は、痛みを覚え自分の願いを献げて、十字架の道への決意をされました。イエス様の十字架によって私達の罪は購われました。イエス様の十字架がなければ私達の罪はそのままです。イエス様の十字架によって罪が許されていることを感謝しましょう。私達の痛みを覚え祈りがかなえられない時に、神様の計画が進んでいるのです。

〜聞かれなかった祈り〜日田の辛島先生

辛島先生が日田で伝道しようとしていた矢先、トラクトも買ってさあ伝道しようと言うその時に、聴行(としゆき)くんが超未熟児(700g)で生まれました。保育器の中で育ち、障害者となったのです。日田から久留米までの往復、上のお姉ちゃん達の世話。思うように伝道できない。そんな中、障害児を持ったお母さん達や病院の関係者などが教会に来るようになり、としゆきくんを通して教会に繋がる人たちが起こされたそうです

 

第29回 最期の晩さん マルコ14:22〜26)

 日本各地で、色々な祭りがあります。北九州では、小倉祇園や戸畑の提灯山傘などです。 聖書の舞台となっているイスラエルにおいても祭があります。代表的なのが、過ぎ越しの祭りです。この祭りの由来は、今から4千年前のことです。イスラエルの民はエジプトに住んでいました。初めは、70人くらいだったのが、4百年後には、数100万人にもなっていたそうです。エジプトの王パロは、イスラエルの民が増えて勢力が増すことを恐れて、苦しい労働をする奴隷にしていました。イスラエルの民は、あまりにも労働が苦しいものですから、神様に叫び求めました。神様はその祈りを聞いて、モーセという指導者を立てて、イスラエルの民をエジプトから脱出させたのでした。(出エジプト記)

 その時に、エジプト中の一番上の子供が死ぬという悲劇が起こりました。しかし、その災いに合わないように、イスラエルの家の門には、子羊の血を塗っていたのでした。子羊の血の付いている家には、神の怒りが過ぎ越したことから、過ぎ越しの祭りと呼ばれるようになりました。この祭りは、イスラエルの民が奴隷生活から解放されたことを祝う記念の祭りなのです。

 イエス様が十字架にかかる前日の食事がこの過ぎ越しの食事でした。過ぎ越し祭では、特別の食事を出します。子羊の肉とイーストの入っていないパンと、エジプトでの苦しい労働を覚える苦菜(にがな)です。

 イエス様は、パンを取って裂きました。そして、「これはわたしの体です。」と言われました。また、ぶどう酒を取って、「これは、私の流す血です」と言われました。(当時契約の時には、動物の犠牲の血をかけることをしていたようです。)

 イエス様は、パンが御自分の体で、ぶどう酒がご自分の流す血であることを示されたのでした。この食事は、今もプロテスタント教会で聖餐式という形で続いています。大体、月に1回は、牧師が、小さく切ったパンと一人一人にぶどうジュースを配るのです。カトリック教会では、毎週のミサは、このパン裂きの儀式と言ってもよいでしょう。どうしてこのようなことをするのでしょうか?それは、罪を悔い改めて、私たちの為にイエス様が十字架で死んでくださったことを覚え、罪の許しを感謝することのためなのです。旧約ではイスラエルの民が奴隷生活から解放されたように、新約では、イエス様は、私たちを罪から解放して下さるお方なのです。

 

第28回 神殿のきよめ  マルコ11:15〜19

  当時のエルサレム神殿には、(現在は、神殿の壁だけが残されていて、ユダヤ人たちは、その「嘆きの壁」といわれている所で、祈っています。) 仕切りがありました。 

 外側から行きますと、まず、異邦人の庭と言われるところがあって、ユダヤ人以外の人も入れます。次に、婦人の庭。ここは、イスラエル人の女性が入れる所。その次に、イスラエルの庭。ユダヤ人の男性が入れる所。そして、祭司の庭。ユダヤ教の宗教家が入って、祭儀をするところ。ユダヤ教の祭儀は、いけにえの動物を焼いていました。中心に、至聖所といわれる、契約の箱が安置されているところがありました。

 異邦人の庭では、いけにえにする動物が売られていたのです。人間の罪の犠牲に動物を焼いて供え物にしていたからです。羊、牛、鳩などが売られていました。また、両替人がいました。神殿の献金は、古代の貨幣でなければならず、通常の通貨から古代の貨幣に両替していたのです。大祭司と言われる宗教家は、中心になって、貧しい人から、暴利をむさぼり金儲けをしていました。

今日の聖書の箇所に、イエス様は、ユダヤ教の神殿で、商売人や両替人の台を倒したと書いてあります。どうしてそのような行動に出られたのでしょうか?イエス様は、本来の祈りの家である神殿が礼拝の場でなくなって商売の場所のようになっていたことに怒られたのです。

 私たち人間は、「神のかたち」に創造されたと創世記にかいてあります。これは、神様とコミュニケートする存在として、神様の声を聞き、応答する存在として造られたのです。神殿は、祈りの家としての使命を持ち、(イザヤ56:7)神へのいけにえは、打ち砕かれ悔いる心なのです。(詩篇51:19)

 レント(イースター前までの40日間)のこの時、神に祈り悔い改める時としましょう。

 

第27回 主がお入用なのです  マルコ11:1〜11

いよいよ十字架にかけられる週を迎えた時のことです。都エルサレムに入る時に、イエス様は、ある動物に乗ってエルサレムに来ました。その動物とは、今日の聖書に書かれてれある子ろばでした。

 ろばという動物は、少し地味なイメージがありますが、少ないえさでも生きることができ、丈夫で長生き、記憶力に優れて、繊細な神経の持ち主だということです。そして、忍耐強く、たくさんの荷物も運びことができるのです。到津の森動物公園には、ふれあい動物コーナーというのがあって、30キロまでの子供なら乗れるろばの乗馬コーナーがあるそうです。

 しかし、救い主なら、馬に乗って颯爽と登場することの方が見栄えがしますし、カッコ良いのではないでしょうか。大人のイエス様が子どものろばに乗った姿を想像してみてください。とても見栄えのするものではありません。

折尾愛真学園中学校の体育祭のプログラムの中に三輪車リレーというのがありました。本来なら三輪車は、2〜4歳の子供が載る乗り物です。その三輪車に中学生だけでなく、先生や保護者が乗ってリレーしました。とても漕げませんし、なかなか前に進むことができません。重くて壊れそうになっていました。 そのように子どものろばが大人のイエス様を乗せることは、不似合いなことなのでした。

 どうしてイエス様は、子どものロバに乗られたのでしょうか?第1に、旧約聖書のゼカリア書9:9に「娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子である ろばに乗って」の預言の成就のとして、平和の王として子ろばを用いられたのです。

 第2に子ろばを連れてくるときの言葉が「主がお入用なのです」これは、主が必要なのです。という意味です。イエス様が「あなたが必要なのだよ」と言われているのです。

 第3に、私たちに求められていることは、従うことです。「いいえ、私のような者では」と躊躇するなら、イエス様の仕事は進みません。イエス様は、今日も神の国実現の為に私たちを必要とされているのです。

 

第26回 ペトロの信仰告白 マタイ16:13〜19

1、信仰とは、まず聞くことから始まります(ローマ10:17)

信仰は、現在進行形で、キャッチボールのようなものではないでしょうか?私たちに降りかかってくる問題。個人の事、教会の事、教団の事、社会の事、様々な問題の中に対しての神様の答えのボールは何か。聖書のお言葉を通して私達は、神様の御声を聞きます。そして、神の御声をどう受けるのか。これが生きた神様との関係ではないでしょうか。

2、キリスト告白

信仰とは、自分の力や義、行いを捨て、イエス様により頼む生き方です。自分ではなくキリストを見上げる生き方です。「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に誠実である」(競謄皀藤押В隠魁砲泙拭◆嵜仰の導き手であるイエスを見つめながら」(ヘブライ12:2)自分を見るのではなく、イエス様を見る生き方へ変わることが信仰です。

3、教会の土台は、信仰告白

ガリラヤ湖の漁師で、イエス様の12弟子の中でも1番弟子と言われて、後に教会のリーダーとなったペトロに、イエス様が、「あなたがたは、わたしを何者だと言うのか」と質問しました。ペトロは、「あなたはメシア、生ける神の子キリストです。」と答えました。メシアとは、救い主という意味です。ペトロは、イエス様に「あなたこそ救い主」と告白しました。それは、「イエス様が私の罪の救い主です」という意味であり、信仰告白とは、自分の罪を認めることなのです。

このペトロの信仰告白が世界で一番最初の信仰告白となりました。イエス様は、「この信仰告白の上に私の教会を建てます。」と言われ、教会は、この信仰告白の土台の上に2千年間続いてきたのです。信仰告白がなければ教会は建っていけません。

信仰告白者の共同体が教会です。お互いの信仰を分かち合う所が教会です。お互いの問題を出し合い、祈り合い、神の御心を求めて行きましょう。

 

第25回 ナルドの香油

前回、祈りは神の言葉を聞くことである。と話しましたが、今回はその続きです。祈りとは、神に応答することです。神の言葉を聞いた人は、必ず応答をします。神様の声に私たちはどのように応答しますか?

イエス様は、大祭司や律法学者の策略で殺されることをご存知でした。そして、ご自分で「十字架にかかって死ぬ」と語られました。イエス様の一番弟子であったペトロは、「イエス様が死ぬなんてありえません」と否定して、イエス様から叱られました。

1、女はイエス様が救い主であることを告白する。

一人の女は、ベタニアのマリアであろうと言われています。イエス様は、ベタニアのマルタ、マリア、ラザロの兄弟と親しく、エルサレムでの宿泊地は、ベタニアのマルタ、マリアの家でした。女は、イエス様に何百万円もする香油を持って来て頭から注ぎました。この行為は、ユダヤの国では、王様が王位を与えられる時の儀式であり、神様の力を注がれるという意味がありました。

女は、イエス様こそ、真実の救い主として十字架におかかりになられるお方なのだと信じたのです。

2、出来る限りの事をする。

自分の近しい人に死が迫って来ていることがわかったら、何かしようと思うでしょう。女は、自分の全財産をかけようと思ったのでした。一方、弟子の一人は、「貧しい人に施したら」といいましたが、その弟子こそイエス様を裏切ったユダであり、ユダは会計係でありながら、お金を盗んでいたのです。

イエス様は、「この人はできる限りのことをした。・・はっきり言っておく。世界中どこででも、福音がのべ伝えられるところでは、この人のしたことも記念として語り伝えられるであろう。」と言われました

イエス・キリストは、わたしたちの罪のために十字架にかかって死なれました。そのゆえに私たちに永遠の命が与えられたのです。命がけの愛を示して下さったイエス様に対して、女は、出来る限りの事をして応答しました。

祈り〜神様、私達にあたえられる使命を全うさせてください。主の御名によって祈ります。アーメン

 

第24回 マルタとマリア (ルカ10:38〜42)

今日のテーマは、祈りということです。祈りと言うと、通常は、お願いということを思いつくのではないでしょうか。確かに、聖書には、「求めなさい」(マタイ7:7)や「望むものを何でも」(ヨハネ15:7)というように、天の父に何でも願ってよいし、神様が良しとされるならば、与えられるとあります。

この祈りは、わたしたちからの求めですが、今日の祈りの学びは、神様の声を聞くということの祈りについて学びます。

今日の聖書の中には、イエス様がある家を訪問した時のことが書いてあります。そこには、マルタとマリアという二人の姉妹がいました。イエス様をお迎えすることは大変です。イエス様だけではなく、12弟子も一緒に行動していましたから、12人分の食事に宿泊も用意したとしたら、大変な労働です。私も韓国からイエダシンガーズと言う賛美グループを教会で迎えた時は、大変でした。貸蒲団を頼んだり、買出しに行ったりしました。当時の女性は、家の仕事が主なもので、パン焼きからしていたようです。姉のマルタは、「もてなしのためせわしく働いていた」とあります。

一方妹のマリアは、どうしていたかというと、イエス様の「話に聞き入っていた」のです。当時は、男性中心社会でしたから、女性が男性の話しの中にいること自体が不自然だったことでしょう。そのマリアの様子を見ていたマルタは、イエス様に不満を訴えました。「マリアは、何にも働いてないじゃないですか。働くように言ってください。」しかし、イエス様の答えは、「マリアは、良い方を選んだ」ここで大事なのは、もてなしが悪いのではなくて、優先順位だと思うのです。何を第1にしているのか。イエス様は、マリアの態度こそ大切にすることなのだよ。と教えてくださっているのです。わたしたちは、何を第1としていますか?イエス様の言葉を聞くことを第1としていますか?「しかし、必要なことはただ一つだけである。」と言われたイエス様の言葉を味わいたいものです。

祈り〜天の父なる神様。何が第一となることがわたしたちに必要なことかを教えてください。主の御名によって祈ります。アーメン

 

第23回 イエス様との出会

 1、出会いについて

 出会うとはどのようなことでしょうか?昨日皆さんは、誰に会いましたか? その人に会って、何か自分にとって良かった事や気付かされたことはありましたか?

 出会いとは、ただ単に見ることではなく、その人に会って、心が動かされるということはないでしょうか?

神様との出会いについて、アウグスチヌスという人が「あなたはわたしたちを造られたので、私たちの心は、あなたのうちに憩うまで安らぎを得られない。」(告白より)と言っています。私達は、神様に出会って心の平安を得るのではないでしょうか

2、友となって下さるイエス様〜谷川俊太郎の詩「ともだち」という詩の中から

「ともだちって かぜがうつっても平気だって言ってくれる人

ともだちって いっしょに帰りたくなる人

ともだちって おかあさんやおとうさんにも 言えない事を相談できる人

ともだちって みんなが行っちゃったあとも 待っててくれる人

ともだちって 側にいないときも 今どうしてるかなって思い出す人・・・

イエス様は、私達の友達となって下さるお方です

3、聖書の中から、イエス様に出会った人のことを学んでいきます。 (ルカ19:1〜10)

ザアカイという人がいました。この人には、友達がいませんでした。なぜなら徴税人という仕事をしていて、困っている人からも税金をたくさん取り立てていたからです。町の人からは、「罪人」と呼ばれていたのです。ザアカイの住んでいる街にイエス様がやって来ることになりました。ザアカイは、どうしてもイエス様に会いたかったのです。イエス様の評判を聞いて何としてでも会いたかったのです。しかし、町じゅう、イエス様を見たい人でいっぱいでした。ザアカイは、木に登ってイエス様を見る事にしました。ザアカイの側をイエス様が通りかかりました。イエス様は「ザアカイ 急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」と言われたのです。ザアカイは、大喜びでイエス様を家に招待しました。ザアカイは、今までお金がたくさんあっても心が満たされませんでした。しかし、イエス様に出会って、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。・・4倍にして返します。」と宣言しました。ザアカイの心は、イエス様によって喜びが溢れました。ザアカイはイエス様に出会ったのです。

祈りによってイエス様に悩みを話しましょう。また、聖書を読んで神様からの答えを頂きましょう。教会に行って礼拝に出たり、クリスチャンの友人と話すことも大事です。

 

 

22回〜見失った羊のたとえ〜テーマ:一人の大切さ

たとえ話〜聖書の真理を身近な題材を用いて語ること。

99匹を野原に残して、1匹を捜す羊飼いのたとえ話を通して、一人一人を愛されるイエス様。99対1では、どちらが大切かということではない。1が大切。相対ではなくて、絶対の価値観。「私なんかいなくていい。」はありません。イエス様にとっては、一人一人が特別な存在。

羊の話は、よくつかわれました。羊というのは、パレスチナでとても身近な家畜だったからです。(詩篇23、ヨハネ10:1〜、ヨハネ21)

まず第1に羊飼いは、羊を養うために草原に連れて行きます。草を食べさせ、水辺に連れて行って水を飲ませます。どのような動物にも、習性と言うのがありますが、羊の習性は、 羊は臆病で脆弱な動物です。群れをはぐれてしまった羊を捕まえようとすると,不安と恐怖心で逃げてばかりで捕まらないそうです。しかし群れで行動する習性を利用すれば,囲いの中に追い込むのはカンタンなのです。この習性と犬の習性をたくみにミックスしたのが放牧犬というわけです。  そのように神様は、私たちの日々の食事のことを生活のことを守ってくださるお方です。

第2に羊飼いは、羊を安全な場所に連れて行きます。危険な岩場や、恐ろしい猛獣のいる所に連れて行きません。羊が危険な目に会わないように守って安のです。

実際,羊は羊飼いに連れられて毎日行き来している道を一人では行きも帰りもできず,すぐ迷ってしまうそうです。こんな方向感覚の悪い動物は他にいません。

そのように神様は、私たちを危険な場所から守ってくださいます。私たちを誘惑したり、おとしめようとする者から助け出して下さるのです。

第3に羊飼いは、死の危険からも守ってくれます。
  調べていて意外な習性もありました。羊は従順な反面とても頑固で,羊飼いに逆らって自分勝手進んで行き,群から離れて危険なところに行って自滅するというのです。矛盾にも思えるのですが……。私たちは、羊飼いの声に聞き従う時に死の陰の谷から、守られるのです。「あなたがわたしと共にいてくださる」

 

 

 

第21回 イエス様の教え(1)〜山上の説教・幸い〜マタイ5

イエス様の語る幸いは、私たちが考える幸いと違います。目に見える持ちモノや。お金のことではない。心の状態。人との関係のこと。価値観の転換を教えています。

 1、心の貧しい人々は、幸いである〜心が空っぽの状態。虚しい。アウグスチヌス(4世紀の神学者)は、「われわれの心は、あなたの中に憩うまで安らぎを得ない」と言いました。私達が心の空虚さを感じる時は、神様に出会うチャンスです。

2、悲しむ人々は、幸いである〜シスターの渡辺和子さんは、9歳の時に、226事件で自分の父親を目の前で殺されました。現在は、「置かれた場所で咲きなさい」等々の著作で、たくさんの人を慰める人になりました。

3、柔和な人々は、幸いである〜柔和とは、「おとなしい」「腹を立てずにじっと我慢する」などの意味があります。キング牧師は、非暴力でアメリカにおける、黒人差別と闘い、1964年に公民権を勝ち取りました。(ノーベル平和賞)

4、義に飢え渇く人々は、幸いである〜田中正造は、日本における公害事件の始まりと言える「足尾銅山鉱毒事件」の解決の為に半生をささげました。彼を支えたのは、聖書であったそうです

5、憐れみ深い人々は、幸いである〜マザーテレサは、インドの女子高の校長先生をしていましたが、列車の中で「最も貧しい人に仕えなさい」とのイエス様の言葉に従い、「死を待つ人のホーム」などインドの貧民街で死にゆく人々を看護し、看取った。

(ノーベル平和賞)

6、心の清い人々は、幸いである〜ジョン・ウェスレーは、「キリスト者の完全」を書いた人であるが、神に明け渡すことによって、心の聖さ「ホーリネス」を受けると語った。

7、平和を作り出す人々は、幸いである〜ネルソン・マンデラ氏は、南アフリカにおけるアパルトヘイト(黒人差別)と闘い、27年間の獄中生活を強いられたが、釈放後自分を攻撃してきた白人を「赦す」と言ったそうです。(ノーベル平和賞)

8、義のために迫害される〜元若松市長であった、吉田敬太郎は戦争反対を言った為に獄中生活を強いられたが、獄中の中で聖書と出会いクリスチャンとなった。その後、若松バプテスト教会の牧師となった。

これらの人々は、皆クリスチャンで、心にイエス様の平和を持ち、人々に尽くす人生を送ったのです。聖書の「幸い」を生きた人ではないでしょうか。

 

第20回 しるし ヨハネによる福音書61~15節

今日の聖書の箇所は、「しるし」の出来事が書かれています。「しるし」は、神様が生きておられることを証しすることなのです。

5つのパンと2匹の魚で5千人以上の人が満腹し、余ったパンの屑と魚の残りを集めると12の籠にいっぱいになった出来事がおこりました。

イスラエルのガリラヤ湖にはタブハという町があって、そこには「5つのパンと2匹の魚の増加の教会」が建てられています。地面には、紀元5世紀に描かれた「5つのパンと2匹の魚」の絵がありました。

1、どのような時に「しるし」は起こったのでしょうか?それは、困難な出来事の時に起こりました

イエス様と弟子たちのところに、5千人の群衆が集まって来て、その人たちにどのようにして食事をさせたらよいだろうかという問題が起こったのでした。その人たちを満腹させるためには、現在の御金で何百万円もかかってしまいます。イエス様と弟子たちにはお金はありません。まさに、お手上げの状況が起こりました。弟子の一人は「群衆を解散させてください」といいました。

2、「しるし」はどのようにして起こっていったのでしょう。それは、一人の少年の差し出したお弁当から始って行きました。

弟子の所に、一人の少年が「5つのパンと2匹の魚」のお弁当を差し出したのです。イエス様は「それをここに持って来なさい」と言われ、感謝の祈りをし、パンを裂いてお渡しになると、全ての人が満腹したのです。

3、証し 2009年、戸畑高峰教会は献堂15周年を迎え、記念集会を持とうという計画が出ました。準備を始める中で、教会員は20名、御金はありません。ないないつくしの中で、どうなることかと思っていました。牧師のゴーサインがでたのは、ひとりの人の献金からでした。それは、テレビのチャリティーのために貯めた貯金箱を教会のために献金してくださったことからです。結果は、ウエル戸畑で300名近くのかたにお越しいただいて、素晴らしい集会を開催できました。

今も神様が生きてあられる体験をしたことお互いに証しましょう。

 

第19回 イエス様の活動〜〔しマルコ1:41〜45)

イエス様の活動には、癒し(マタイ4:24)と奇跡(マタイ14:20)と説教(マタイ5〜7章)がありました。

イエス様の時代、今から2000年前のイスラエルでは、病気になる事は、神の罰であり、罪の結果などと思われていました(レビ13:45〜46)。日本にも同じような考え方がありました。悪い事が起こると、「先祖の墓を供養してないなど・・」の迷信があります。最近でも東日本大震災は、天罰だと言った人もいました。

1、イエス様の病気に対する考え方は、「神の栄光の為です」(ヨハネ9:6)

ロッキー&マーラさんという、ゴスペル夫婦を知っていますか?ロッキーの家族は、絢塚ファミリーバンドで小学校や公民館で活動をしています。そのロッキーのお父さんは、全盲です。綾塚さんは、小さい時に医療ミスで、目に硝酸銀を塗られたことから視覚障害者となりました。他人から、「たたり」といわれ、いろいろな宗教を転々として言ったそうです。お母さんは、自殺未遂までなさったそうです。そうこうしているうちに綾塚さんは、東京の盲学校に入りました。そこにクリスチャンの友人がいて、教会に誘ってくれたそうです。そして、教会に行ったら、牧師から、「あなたの眼の見えないのは神様のみわざのめですよ」と言われ、嬉しくなって、クリスチャンになり、家族で家で賛美し、教会でも賛美の奉仕をし、やがて小学校などに活動が広がって行きました。

また、病は、絆を深めることになります。弱さを通しての人びとの絆は強くなっていくのではないでしょうか。

2、イエス様の癒しは、愛

聖書の中で「憐れみ」(マルコ1:41)という言葉は、ギリシャ語でスプランクニゾマイと言って、「内臓」という意味があります。相手の痛みを思い、自分と同じように痛む人がいます。人の痛みを自分の事として痛む心があるのでしょう。イエス様は、心の底から痛みを持って病気の人に触れられ、癒されたのです。

 

第18回  十二使徒(マルコ3:13〜19)

イエス様、12人の使徒(実際にイエス様にあった人達の事)を選ばれました。特徴としては、

1、ガリラヤという田舎の出身者(ユダ以外)。 神学校の出身者も都会よりも地方。大教会よりも小さい教会の方が多いようです。ハングリー精神でしょうか?

2、ごく普通の人〜漁師など〜イエス様の弟子は、エリートではありませんでした。庶民です。ごく一般の人々です。

イエス様の弟子は、ガリラヤ湖の漁師でした。ガリラヤ湖の大きさは、南北21キロ東西12キロの湖です。丁度博多湾位だそうです。私が25年前にイスラエルに行きました時に、紀元1世紀の舟が見つかって、展示されていました。イエス様の時代の舟です。長さは、7.2メートル幅は、2.1メートルの手こぎボートのような形をしていました。イエス様の弟子たちもその様な舟に乗って、漁に行っていたのでしょう。地引網方式や、投げ網方式で、チームで漁をしていたようです。

ガリラヤ湖半には、レストランがあってそこでペトロの魚と言われている「黒スズメダイ」という魚のフライ料理をいただきました。

3、イエス様の方からの選び〜一般的な弟子はあの先生について行きたいから、「弟子にして下さい」といの方法です。しかし、イエス様の方法は、イエス様からの呼びかけです。

召命とは、「呼び出す」コ―リングともいわれます。(マタイ4:21)ヨハネの黙示録3:20を題材にした絵があります。イエス様が、ドアの前に立って、ノックをしている絵です。これは、私たちの心をイエス様が、ノックしている。心を開いてイエス様をお迎えしなさい。(讃美歌第2編191番)そして、このドアは、私たちの側にしかノブがついていないのです。イエス様の呼びかけに応答して弟子たちは、自分の仕事を捨てて従いました。

4、ごく普通の無学な田舎者の弟子たちが、イエス様が十字架に架かり、復活された後は変えられました。

ペトロは、世界宣教のビジョンを持ち、ヨーロッパに行きました。そして伝道して行く時に、大迫害が起きたのです。ローマ皇帝ネロの自作自演のローマの火災は、「クリスチャンのせいだ」というデマによって多くのクリスチャンが、殺されました。

その迫害のさなか、ペトロは、恐れて逃げていました。すると、イエス様が現れ「私はもう一度十字架にかからないといけない」と語られました。ペトロは、イエス様の十字架を負う決心をして、ローマに戻り、逆さ十字架になったそうです。(クォヴァディスより)

トマスは、インド(槍で刺されて殉教)へ。ヤコブは、スペインへ。アンドレは、スコットランドへ。ヨハネは、島流しに。アルファイの子ヤコブは、のこぎりで切断され。バルトロマイは、生きたままナイフで川を剥がれた。などの伝説が残っています。弟子たちは、そのような苦難をも喜んで受けていく人に変えられました。

殉教者の血は教会の種」言われているように、ペトロの殉教の場所は、現在のヴァチカン市国のサンピエトロ寺院になりましたし、各弟子たちの殉教の場所には教会が建っています。「「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが死ねば多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)お言葉の通りです。

 

 

17回  荒野の誘惑 マタイ4:1〜11

どんな人でも誘惑に会います。誘惑は、年齢によっても、その時の状況によっても違うからです。小さい子供にとっては、アメ玉が誘惑になるでしょう。また、コレクションしている1枚のカードが誘惑になるのです。

1、5歳のモリちゃん〜津和野のちいさな殉教者〜

明治になりキリスト教禁令の高札が下りた(1873年)後も、まだ信仰の迫害が続いていました。5歳のモリちゃんは、お父さんやお母さんと一緒に、津和野に連れて来られました。その時に役人から「イエスなんて大嫌いと言いさえすれば 美味しいお菓子をあげるんだけどなあ」と言われました。モリちゃんは、「そんな わるいこと いえないわ。 わたしは イエス様が大好きなの。 それに 天国に行きたいの。天国には もっともっと おいしい おかしがあるんだから」と拒否しました。その後、モリちゃんは、飢えと高い熱の為に殉教しました。

2、アランレッドバス〜ケズィック講師

英国の著名な説教者であるアランレッドパス先生は、召される直前に、病床で「私の為に祈ってくれないか。私は今この車いすに座って、今までになかったほどの霊的な戦いを感じているから。私は今、何十年も前に解決したと思っていた誘惑にかられている。私の心がこんなに汚れているとは知らなかった」と言われたそうなのです。

 誘惑は、小さい子供からおじいちゃんおばあちゃんまであります。

3、誘惑その1〜「石をパンに」(3節)という誘惑。

イエス様は、40日間の断食(人間の限界は人にもよりますが、食物は40日、水は1週間位だそうです)をされました。悪魔の誘惑は、弱さの時にやって来ます。

イエス様の答え「人はパンだけで・・神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(4節)〜肉の欲を満たすのでなく、心の満たしを求める生き方への転換。力による生き方から、神の言葉による生き方への転換です

4、誘惑その2〜「飛び降りたらどうだ」(6節)

悪魔は人間への最初の誘惑で「ほんとうに神が・・」(創世記3章)と神を疑わせました。そこから、罪が入りました。人間には、危険なことをして自分の方に興味を持たせようとする、また振り向いってもらいたい為に危険なことをする。心理があります。(試し行動)

イエス様の答え「主を試してはならない」(7節)〜神を試す生き方から、神を信頼する生き方への転換。神様への態度は、まず信頼から入りましょう。

5、誘惑その3〜「私にひれ伏すなら」(9節)

ちょっとだけ、私に頭を下げたら、この世の栄華を与える。悪魔との取引です。悪魔に心を売って、この世の欲に生きるのか。神にのみに従うのか。

イエス様の答え「主にのみ仕えよ」(10節)

この世の肉欲を求める生き方から、主に仕える生き方への転換。

、どうしてイエス様にも誘惑が来たのでしょう。

イエス様は、ユダの荒れ野で悪魔から、誘惑を受けました。神の使命を全うするための神様からのテストだったのです。イエス様は、私達と同じ誘惑に遭う事により、私達の弱さをわかって下さるお方であり、十字架により罪を解決して下さったお方です。(ヘブライ4:15)恐れずにイエス様に信頼しましょう。

 

 

16回 イエス様の公生涯(神の使命)〜イエス様活動の準備〜\礼

聖書には、イエス様の誕生の記事は書いてありますが、それから30歳までの事は、ほとんど記述がありません。幼子(ルカ240)少年(ルカ241)大工(マコ6:3)〜イエス様は、ナザレで30歳まで過ごします。ナザレには、受胎告知教会とヨセフの教会があります。ヨセフの教会には、大工仕事をするイエス様の絵がありました。

イエス様の宣教の開始は、洗礼からでした(マタイ3:!6,13〜17)

授洗者は、洗礼者ヨハネ、場所は、ヨルダン川です。

どうして、罪のないイエス様が、洗礼を受けなければならなかったのでしょうか?イエス様は、神の御子であられたのに、人と同じ姿になられました。(フィリピ2:6、ヘブル3:5)イエス様は、人間と同じ痛みや苦しみを体験し、私達がイエス様に倣って生きるように見本を示されたのです。(15節、汽撻肇蹌押В横院

では、私たちの洗礼は、どのような意味を持つでしょうか?

1、罪(ハマルティア:的を外すと言う意味です)聖書における罪とは、本来神と共に生きるように造られている人間が、神に背いて自己中心に生きている事をいいます。この罪(原罪)は、アダムとエバが神との約束を破り、善悪の知識の木の実を食べた所から入りました。(ローマ5:12)そして、神との関係の壊れてしまった人間は、人と人との関係も壊れてしまいます。その罪を解決するために、イエスキリスト様が十字架にかかって下さいました。本来私達が受ける罰をイエス様が負って下さったのです。同志社大学の創立者、新島襄は、生徒達が授業をボイコットしたことが問題になった時に、生徒たちの問題は自分の問題だと言って、自分の腕を杖で叩きました。「自責の杖」は、今も同志社の資料センターに残っているそうです。

2、悔い改め(メタノイア:方向転嫁)悔い改めは反省や懺悔とは違います。

自分中心から神中心へと生きる生き方(全人格的方向転換、又は心の転換)の事で、今までの罪の生活から正しい生き方へと方向転換する生き方を言います。

私たちは、気付くと気付かざるに関わらず、罪を犯しています。行い、言葉、心の中まで問われたら、みな罪人です。その罪から解放されるためには、まず自分の罪を認めることから始まります。(汽茱魯唯院В后

3、洗礼(バプティゾー:浸すと言う意味がある)〜イエスキリストを救い主と信じて教会に加わるための水の儀式(ヨハネ3:5)罪に死に、キリスト共によみがえり新しい人生を始めるという意味もある。(ローマ6:4)

 

15回 救い主のお祝いに来た人達

救い主の誕生を一番初めにお祝いに来た人たちは、どのような人たちだったのでしょうか?私は、育児日記をつけていました。その項目に、「お祝いに来た人」という項目があります。皆さんの場合はどうですか?イエス様の場合は?

〕啝瑤ぁ羊飼いを知っていますか?アルプスの少女ハイジは、山羊飼いでしょうか?インターナショナルコースの生徒さんに聞いたら、自分も羊を飼ったことがあると言っていました。中国では、羊をよく食べるのだそうです。当時、羊飼いは、身分の低い仕事とされていました。(旧約聖書の十戒の中の安息日を守れない〜動物を飼っているから〜律法を守れない罪人)イエス様の誕生の最初の知らせを受けたのは、羊飼いでした。どうして、羊飼いだったのでしょう?それは、私たちの罪や弱さを負うためです。

◆舛祝いに来た人〜占星術の学者〜クリスマスと言えば?プレゼントですね。クリスマスは、サンタの日でありませんが、プレゼントの起源は、聖書から来ています。そのひとつが、占星術の学者の贈り物です。お祝いに駆け付けた人達がいました。そのうちの1つのグループが、東の国の学者たちでした。東の国というのは、今のイラン辺りを指しています。彼らは、マギ(マジックの語源)と呼ばれ、星の運行を調べるだけでなく、天文学、数学、自然科学にひいでた人達で、当時の学者であったのです。その学者たちが、救い主の星の出現で、現在のイランからイスラエルまで1600キロの旅をして会いに行ったのです。当時は飛行機も車もない時代です。キャラバン隊というラクダに乗って何日もかかって旅をしました。

そして、贈り物をしました。黄金、乳香、没薬です。黄金は、王にささげる金の贈り物。乳香は、当時神殿の礼拝に用いられるとても高価な香料。そして、没薬は、死者の遺体に塗る高価な薬品(ミイラに用いられた)どれも大変、高価な贈り物でした。学者たちは、お金と時間をかけてでも救い主に会いにきたのでした。

6欧譴真諭船悒蹈撚Α対して、恐れたのは、ヘロデ大王〜非常に残忍な王。自分の親族や奥さんまで殺した。奥さんを殺した後で、「マリアンヌ、マリアンヌ」と嘆いたと言う。彼は、エドム人で、生粋のユダヤ人ではありませんでした。救い主はユダから生まれるという預言を恐れ、自分の地位を守ろうとして、救い主の命を奪おうとした。しかし、天使のお告げにより、救い主一家はエジプトへ逃げました。

救い主は、その様な人々に囲まれながら、生まれて来たのでした。

 

 

14回 「飼い葉桶」ルカ2:7

皆さんは、どこで生まれましたか?私は、小倉の国立病院で生まれたそうです。私の夫は、宮崎県の自分の家で生まれたそうです。マリアの出産はどうだったのでしょうか?1、旅の途中の出産〜住民登録

イエス様の生まれた時代は、ローマ帝国の時代でした。皇帝は絶対権力を持っていました。そして、住民登録の命令が出たのです。住民登録とは、皇帝が徴税の目的の為に人口調査をすることです。人口調査は生まれ故郷に帰らなくてはなりませんでした。ヨセフは、ガリラヤ湖のそばのナザレという村に住んでいましたが、生まれ故郷は、ベツレヘムでした。ナザレからベツレヘムまで、約110キロあります。門司港から、鳥栖位の距離です。私は、大学時代にユースホステルという安い宿に泊まって旅をするサークルに入っていました。そのサークルで、アルキングというイベントがありました。大学のある福岡の百地(ももち)から、佐賀の唐津まで12時間かかって歩きました。(40キロくらいでしょうか)もう最後は足が上がらないくらい痛かったです。マリアは、臨月のおなかをかかえての旅です。どんなに大変だったことでしょう。2、ベツレヘム〜家畜小屋

何日もかかって、やっとベツレヘムに到着しました。しかし、宿はどこもいっぱいです。空いていたのは、動物を泊まらせる家畜小屋しかありませんでした。私は、小学校の頃、飼育部に入っていました。飼育部の仕事は、毎朝鶏とウサギのいる小屋の掃除です。臭いです。イエス様は、臭い家畜小屋でお生まれになりました。動物のえさ箱である干し草の飼い葉桶に寝かされたのです。

なぜ、イエス様は飼い葉桶の上に寝かされなければならなかったのでしょうか?

3、飼い葉桶の意味 岨笋燭舛虜瓩琉戮竜澆ぜ隋淵泪織ぃ院В横院忙笋燭舛蓮∋廚ぁ言葉、行いにおいて罪を犯しています。心に浮かんでくることは悪い思いなのです。どうしようもありません。イエス様のお弟子さんのパウロさんでさえ、伝道旅行の途中でけんかになって分かれたと書いてあります。ちょっとした意見の違いで仲たがいしてしまうのが人間です。イエス様はそんな私たちの罪を購うためにお生まれになったのです。

4、飼い葉桶の意味◆組瓩靴澆鯢修靴討い泙后私たちの痛みや、悲しみを担うためにイエス様はお生まれになられました(イザヤ53章)

  

 

13回 「インマヌエル」 マタイ1:23

1、ヨセフ

ユダヤ人は、(現在は、ユダヤ教を信じる人がユダヤ人ですが)血筋を重んじる民族でした。新約聖書の初めは、系図から始まっています。救い主は、イスラエル12部族の一つユダ族から生まれると預言されていました。(イザヤ11:1)ヨセフは、救い主の血統であるユダ族の出身でした。仕事は、大工でした。(マタイ13:55)

婚約者のマリアから、救い主を身ごもったことを知らされたヨセフは、戸惑いました。当然マリアを疑ったことでしょう。そのように悩んでいるヨセフの夢に、御使いが現れました。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その子はインマヌエルと呼ばれる」(イザヤ714)と告げます。この箇所は、イエス様が生まれる約600年前にイザヤと言う預言者が預言をしていました。処女降誕を聖書は、語っています。絶対にあり得ないことが起こるのが、神様の御業です。このことは、説明はできません。しかし、事実として聖書は、語っているのです。ヨセフは、神様を信じました。マリアと神様を信頼したのです。

2、インマヌエル

神の御子イエス様の存在とは、まさに「神我らと共にいます」インマヌエルということを意味しています。

日本人の思想に深く根ざしているのが因果応報ということではないでしょうか。「このような悪いことが起こるのは、誰かが、悪いことをしたからだ。」「バチガ当たる」しかし、イエス様はどんな人とも一緒にいて下さるお方であり(創世記28:15)どんなことをも益に変えて下さるお方です。(ローマ8:28)

クリスチャン信仰がいつもインマヌエルの信仰に根ざしていけるようにお互いに祈り合いましょう。

 

 

12回 キリストの生涯 

ルカ1:38「お言葉どおり」

救い主は、処女によって生まれるという預言は、旧約聖書のイザヤ書の7章にあります。(イザヤ7:14)そして、約600年後に救い主は、処女マリアによって、生まれました。「お言葉どおり」にというのは、神様の計画は必ず成る。成就するということです。

今日の聖書の箇所は、救い主イエス様の母となるマリアのもとに「あなたは救い主の母となるのですよと」天使が、お告げに来た箇所です。

マリアにとって、救い主を身ごもる事は、初めは決して、嬉しいことではありませんでした。年齢は、14歳位であったそうです。ティーンエジャーであることは間違いありません。(当時、2000年前のイスラエル・パレスチナでは、女性の人権はありません。結婚前は、父の所有物、結婚後は夫の所有物とみなされていました。)マリアはヨセフと婚約していました。ヨセフとの家庭を築こうという夢を描きながら毎日を送っているその時に、突然、天使から救い主の母になると宣言されたのです。マリアは、戸惑い〔29節〕とあります。「一体どういうこと?私は、これからヨセフと結婚するのに。ヨセフはどう思うだろうか?ヨセフさんに何と言おう。家族にどう説明すればよいのか。周りの人はどう思うだろうか?」想定外どころではありません。青天の霹靂ともいえるでき事でした。いろいろな不安がマリアの心をよぎったことでしょう。

また、当時結婚前の妊娠は、禁じられていましたから石打ちの刑になってもおかしくなかったのです。(申命記20:20)

しかし、マリアは、「お言葉どおりこの身になりますように。」と自分の理解を超える神様の計画を受け入れて行くのです。そして、神様に全く信頼し委ねる決心をしていきました。

プロテスタントの信仰は、御言葉に立つ信仰です。色々問題が起こって来た時に、お言葉が与えられるまで祈る信仰です。お言葉が与えられると、神の計画は確実に成って行き、平安が与えられるのです。

 

11回 福音 マルコ1:1

旧約聖書は、人間の本質について、救いを必要としている人間の姿が書かれています。その待望の救い主が、イエス・キリスト様なのです

福音とは、イエス様の十字架による罪の赦しが完成された「良い知らせ」の事なのです。

罪の性質を持っている人間は、福音に気づきませんし、気づこうともしません。(ヨハネ9:41)イエス様時代の律法学者がその典型でした。自分たちは、律法を守っている正しい人間であると誇っていました。しかし、イエス様はその本質を見抜き「白く塗った墓」(マタイ23:27)と批判しました。

どうしたら、福音に気づけるのでしょうか?これはまさに、恵みの業なのです。(エフェソ2:8、コリント12:3)恵みとは、人間の善行ではなく、神様の一方的な憐れみのことなのです。

NHKの連続テレビドラマの「花子とアン」の主人公「はな」は、父親の影響で幼児洗礼をうけ、山梨県の甲府から東京の東洋英和女学校に入学します。この「はな」村岡花子が「腹心の友たちへ」というエッセイの中で、『寄宿舎の四階の小さい部屋、それは生徒たちの〈祈りの部屋〉として作られたものだった。宣教師の教師たちは、生徒がひとり静かに神に祈り罪を悔いるためにつくったのであるが、さて、どんな人があそこに こもって祈ったのか、すくなくとも、私はそういう心理状態にならなかった。それどころか、私はすべてのものに向かって疑いをいだいた。・・・それに服従する気になったのは、これよりもずっとずっと後のこと、結婚して男の子の母となり、限りない幸福に浸っていた時に突如、わずか一昼夜の病気でその子の生命を奪われた悲痛な経験を経てからの心境である」と書いてあります。

病気や死、事業の失敗などの苦難の中でこの世の価値観が崩れて行く時に、福音の光に気づくのではないでしょうか

 

 

10回 カインとアベル 創世記41~10

罪を犯したアダムとエバの家庭の悲劇は、人間の最初の殺人事件が兄弟であった事につながって行きます。しかし、この聖書の箇所においては、罪の連鎖と言う事を取りあげるよりも、献げ物についての神様の視点と言う事に焦点を置いて読んでいきたいと思います。

 兄カインは、土を耕す人となり、(農耕の仕事)弟アベルは、羊を飼う人(牧畜の仕事)となります。

 二人は、別々に献げ物を持って来ました。カインの献げ物は、土の実り〜農作物で、アベルの献げ物は、羊の群れの中からの肥えた初子でした。

「主は、アベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。」(5節)

 

1、神様は、「目を留められた」見ておられるのです。神様は、私達の神様への献げ物〜献金、奉仕を見ておられるのです。私達の神様への献げ物は、決して見過ごされる事はないと言う事です。

 神様は、アベルの献げ物に目を留められたと言う事は、アベルの神様への信仰の現れとしての献げ物を見ておられたのです。

 

 2、カインは、神に目を留められたアベルを妬ましく思ったのです。妬みは、誰の心にもある問題です。クリスチャンは、この心に潜んでいる問題にこそ向き合い、神様に聖めていただきましょう。

 

 3、カインは、さすらう者となりました。「人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになる」(ガラテヤ6:7)厳粛な裁きがあります。しかし、神様は、カインにしるしをつけられるお方であり、立ちかえるチャンスも備えて下さるお方なのです。

 

 

 

9回 原罪 創世記2章15〜3

原罪とは、アダムとエバによって入った、人間の最初の罪のことです。

1、 どのようにして罪が入ったのか

「主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死ぬ。」(創世記2章15〜16節)

これが神と人間との約束でした。これは、人間に自由意思を神様が与えていることでもあるのです。

 

2、誘惑

  崋悗禄に言った。どの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」(3章1節)

誘惑する者(蛇)がやって来て、神の言葉に対して、疑いをかけるのです。

◆ 崕は蛇に答えた。わたしたちは園の果実を食べてもよいのです。」(3章3節)

女は、誘惑する者との関係を持ちます。

 「でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない。触れてもいけない。死んではいけないから」(3章3〜4節) 神の言葉を歪曲化して行きます。

ぁー悗禄に言った。「決して死ぬことはない」(34節)

 神の言葉をねつ造しています。 

ァ崕が見ると」(36節)誘惑は、目から入って来ます。

Α嵜世里茲Δ法廖35節)

神にようになろうとした人間のごう慢さが現れます。

 

3 罪の実行 

―は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた(36節)

4、罪を犯した人間の行動

 峭をおおう」恥ずかしいと思う。(3章7節〜225節との対比)

◆岷れる」(3章8節)

「女が」(312節)「蛇が」(313節)と責任転嫁をしていきます。

 

5、罪とは

「取って食べるなと命じた木から食べた」(311節)      神との約束違反であり、神より前に出ようとするごう慢さであり、人間の意思による不服従の事です。

 

6、結果

 屬呂蕕澆龍譴靴漾廖316節)出産の苦しみ

◆岾曚亡世靴董廖319節)労働の苦しみ

「エデンの園から追い出し」(323節)「罪によって死が入りこんだ」(新約聖書ローマの信徒への手紙512節)死の苦しみ

 

7、神の愛

 屬匹海砲い襪里」(39節)いつも捜しておられる神様

◆嵌蕕琉瓩鮑遒辰特紊擦蕕譴拭廖320節)〜動物の犠牲がなされたこととイエスキリストの十字架と関連が出てきます。

 この箇所は、最初に人間が罪を犯したことが書いてありますが、これは、私たちが罪を犯したときの事とも重なっています。人間は、罪の性質を持って生きています。故意であってもそうでなくても、無意識においてでも罪を犯しているのが人間です。その罪の赦しの為にイエス様は、十字架に架かって下さいました。

 事ごとに罪を悔い改め、またその罪から解放して下さり、聖めて下さるイエス様を信じるのがホーリネス信仰です。

 

 

8回 安息日 「第7の日に、神は御自分の仕事を完成され、安息された。」(創世記2章2節)

安息日とは、神が創造の業を完成なさったことを記念し、休息と礼拝するための日を制定された日の事をいいます。

イエス様の時代、礼拝する日は土曜日でした。土曜日は、安息日として神を礼拝する日、休息の日として労働は、禁止されていました。現在の礼拝の日は、日曜日ですが、これは、クリスチャンが、イエス様の復活を記念として土曜日から日曜日に礼拝する日が変えていったことに由来します。

福岡市の西区に西南学院というミッションスクールがあります。創立者は、今から108年前にアメリカから渡って来た宣教師のC・k・ド―ジャーと言う人です。

アメリカのケンタッキーの神学校を卒業したド―ジャーは、妻のモードと一緒に1ヶ月の船旅を終えて、(1906)長崎に着きました。そして、1916年に西南学院を創立しました。

学院の事業は拡大して行く中で、一つの問題が起こりました。それが、安息日問題です。聖書の教えを厳格に守るド―ジャーは、日曜日を安息日として、スポーツクラブの試合を禁じたのです。それは、キリスト教の文化を持たない日本にあっては、亀裂を産むことになりました。このことが一因で学生たちの反感が高まり、ついに一部の高等学校の生徒によるストライキに発展していきました。ド―ジャーは、責任を感じて院長を退任しました。それから、ド―ジャーは、小倉の西南女学院に行き、1933年に心臓病で召されました。お墓は、小倉の下到津にある西南の墓地にあります。

それでは、イエス様は安息日をどう定義されていたのでしょう。(マルコ34節)イエス様は、安息日に会堂で礼拝し、そして病気の人を癒されたのです。当時安息日に医療行為をすることは、労働とみなされ禁じられていました。しかしイエス様は、苦しむ者と共におられたのです。安息日とは、神を礼拝する日であり、愛しあう日なのです。

私は、大学2年生の時にユースホステルと言うサークルに入っていました。しかしそのサークルに入っていると日曜日の礼拝を守れないことから祈って退部しました。かれこれ30年の献身者生活の中で、教会で礼拝を守れなかった日は、多分病院に入院していた日の3日くらいと思います。日曜日に礼拝を守れることは、祝福の基となります

 

 

7回 人の創造 「神は御自分にかたどって人を創造された。」(創世記1:27)

 日本の若者は、セルフイメージが他の国の若者に比べて低いのだそうです。それは、神にかたどって造られたと言う聖書のメッセージを知らない所にもよるのではないでしょうか?「かたどって」とは 神のイメージという意味があります。神様は、人間を神に似た者として造られました。

1、神様は、見ておられるお方です。「わたしの民の苦しみを見」(出エジプト37節)神様は、聞いて下さるお方です。「彼らの叫びを聞き」(出エジプト37節)神様は、私たちを愛するゆえに「走り寄って」(ルカ15:30)下さる方です。神は愛する者をかくまってくださいます。「神は、羽をもってあなたをおおい」(詩篇91篇4節)これらはみな、愛することと関係があります。

2、「神は愛である」この愛は、受け取る相手をもたなければ成立しません。神の愛の受け取り手を、神が自分の前に立てる」〜(北森嘉蔵)私たち人間は、神様の本質である愛に応答する存在として造られ、神に似た存在として、価値のあるものとして造られました。

3、私達は、霊的な存在であり、神の言葉を理解しそれに応答し、神と対等に交わる事が出来る存在として造られました。聖さを求め、他者をいつくしみ、愛することを喜び、創作することを楽しみ、創造性を持ち、認識したり、区別したり、これらは神の御性質と同じなのです。〜(遠藤嘉信)

4、「主なる神は、土(アダマー)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。(創世記2:7)

)人体を構成している成分が土に等しいのだそうです私たちは、土の器でありますので、(第2コリント4:7)神によって息を吹きかけて頂いて、生きる存在となります。礼拝する時に、神様の命の息をいただいて、生きる力が与えられるのです。息をしなければ人間は死んでしまいます。神様の息を頂きましょう。古代の神学者アウグスチヌスは、(バークレー)「われわれの心は、あなたの中にいこうまでは安らぎを得ない」とあります。私たちは、礼拝することにより、神様からの安らぎを得て生きるのです。

 また、祈りも神様の息を頂くことになります。教会の祈り、家庭の祈り、一人で歩いている時でも祈りましょう。祈りを大切にするときに信仰生活が充実し、変わっていきます。

 

 

第6回 天地創造 「初めに、神は天地を創造された。」(創世記1:1)

創造の過程は、自然科学の理にかなっているか?クリスチャンでも色々な立場の人がいます。科学者の観点から聖書を読んでみると、合致するところも多いようです。例えば、「人間原理」〜宇宙は、偶然として片つけるにはあまりにも不可解な、人間にとっての「居心地の良さ」を備えている。〜というのがあるそうです。

聖書は、信仰の書物として読みます。「初めに、神が天地を創造した」これは、神が深い御計画のうちに、私たちを特別の意図をもって創造され、この世界に大切な目的をもって、重要な役割を果たせるために、この世界に置かれたということなのです。単純に何ができるかというような問題ではありません。その人の存在自体が、それ自体で、神の意志の表れとして尊いのです。私たちは、偶然によって存在しているのではありません。

「初めに」と言う言葉は、(旧約聖書の標題もヘブライ語のベレーシートといいます。)まず私たちの生き方が、神様を第1とする時に、私たちの存在意義や目的がはっきりしてくると言う事です。V.IP.(  very important person)という言葉を御存じでしょう。私たち一人一人は、「極めて良かった」(1:31)存在なのです。フランシスコザビエルが、初めて愛を日本語に訳した時に「ごたいせつ」と訳した。私たち一人一人は、神様の御計画があり一人一人が大切な存在なのです。

 母親は、子どもを出産して初めて子どもに遭った瞬間「なんてかわいい」と思います。神様も私たち一人一人をそのように思っておられるのです。

去年のNHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公の夫は、新島ジョーですが、この新島ジョーは、日本で最初のキリスト教学校「同志社」を京都につくりました。新島ジョーは、幕末、武士の子供として育ちました。ある日、友人に借りて読んだ本の中に、「漢訳聖書」があり、聖書の天の父に出会いました。「私を創ったのはだれか?私の両親か?そうではない。それは神だ。私の机を造ったのは誰か。大工か?そうではない。それも神だ。神が地上に木をはえさせるようになさったのだ。神が大工に私の机を作らせたのだが、その机はじっさいどこかの木からできたものだ、と。そうであるなら私は神に感謝し、神を信じ、神に対して心の正しい人にならなくてはならないのだ、と。この時以来私の心は英語の聖書を読みたいという思いに満たされ、函館に行って、イギリス人かアメリカ人の聖書の教師を得たいと決意したのです。」〜(新島襄全集10)そして、当時まだ鎖国をしていた時に函館から海外へ行く決意をします。

 

 

 

第5回 イエスキリスト〜人となられた神〜

 「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」ヨハネ1:18(ヨハネ20:31、ヘブライ4:14)

 神様ってどんな方?という質問があれば、「イエス様だよ」と答えることができます。

 イエス・キリストとは、イエスは、ヘブライ語の名前で、「主は救い」という意味です。キリストとは、名前ではなく称号の事で、ヘブライ語の王の位をあらわす(マーシーアハ:救い主メシア)から来ています。ゆえに、イエスキリストとは、イエスは、救い主である。という意味です。

 また、西暦は、イエスキリストの誕生を基準として数えられているのです。(3年ほどの誤差があるそうですが)新約聖書の福音書の福音とは、ギリシャ語でユーアンゲリオンといいます。これは、兵士が、戦いに勝利した、喜びの知らせ、よい知らせを意味します。英語で福音書の事をグッドニュース と言います。イエス様が来て下さったのは、まさによい知らせなのです。

 ピアカウンセリングというのがあります。同じ痛みや病気の人同士が話を聞き合うことによって、いやしがなされるという方法です。イエス様は、私たち人間の痛みや悲しみをわかって下さる人となられた神様なのです。

 私は、大学生になって、教会に行っていませんでした。しかしもう一度行くようになって、分からない事がありました。「神様は分かるけれど、イエス様って一体私と何の関係があるの?」荒瀬先生に尋ねると「教会に来る。聖書を読む。祈る。」この3つを続けなさい」とアドバイスして下さいました。すると分かったのは、自分の罪と言う事です。それまでは、罪と言ってもピンときませんでしたが、聖書を読んで行くと、自分のしてきたことが、罪の生活であったことが分かったのです。私は、良心の呵責くに苦しみました。「どうしてあんな事をしてしまったのだろう。」西南学院の宗教活動室で宣教師のキャルコート先生に尋ねました。すると先生は、「ローマ人への手紙を読みなさい」とアドバイスして下さいました。読んでいくとローマ人への手紙3章22節まで来ました。「イエスキリストを信じることによる・・神の義」ここまでくると私の心に救いの確信が来ました。「信じるだけでいい。神の義をいただける」心は安らかになり平安と喜びにあふれて行きました。

第4回 聖書の舞台(聖書の歴史・地理)

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」

(ヨハネ15:16、申命記7:7)

神様の方法は、「選び」という方法です。神様は、人間を救うためにまず一人の人(アブラハム 創世記12:1)を選びました。そこから選びの民となっていきました。その選びの民が「イスラエル民族」なのです。

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ヨーロッパとアフリカの間、地中海沿岸にあります。この国は、ハイテクの国であり、インテル、グーグルなどの研究所があります。また、砂漠に一年中水が届くシステムも開発しました。また、死語となっていたヘブライ語も復活させました。

 最大の苦難は、第2次世界大戦のホロコーストです。ヒトラーにより、600万人の人々がガス室に送りこまれ、虐殺されました。(シンドラーのリストや北原千畝のなど映画やもあります)

 ⇔鮖法腺佳臺弧瀬瓮愁櫂織潺笋肇┘献廛畔弧世隆屬飽銘屬慶名οとなっていました。ゆえに、大国に利用され、戦いの絶えない歴史です。苦難の中で民族を一つとしていったのが、「神の言葉」(旧約聖書)でした。

 C詫〜北は、ガリラヤ湖(ガリラヤ地方)、ヨルダン川(サマリヤ地方)、南に死海〈ユダヤ地方〉があります。死海は、世界で海抜(海抜398メートル)が一番低く、塩分濃度が濃いため生物がいません。この死海の近くで、20紀最大の考古学発見がなされました。それが、死海写本です。一人の羊飼いの少年が羊を追って行くとそこに洞窟がありました。その中にたくさんの壺がありました。そこの中には、羊皮紙の書物があったのです。それが、紀元前1〜2世紀に書かれたであろう旧約聖書の写本だったのです。

 だ治〜イエス様の時代は、ローマ帝国に支配されている時代でした

 ゼ匆顱船汽鵐悒疋螢鵝劵罐瀬笋旅餡顱咾中心で、律法が法律のようでその他にタルムードといわれる細則がありました。祭司・サドカイ派と律法学者・ファリサイ派の2大勢力。その他に律法を守れない罪人と呼ばれる人たちがいました。

 

第3回 聖書

「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」マタイ4:4 聖書とは、英語でバイブルと言いますが、「書物の中の書物」と言う意味です。アメリカの大統領の就任式では、聖書に手を当てて宣誓します。(God blessAmerica)それは、1620年イギリスの迫害を受けたキリスト教徒が逃れて、舟に乗って新大陸にやっていたことから由来しているそうです。

 聖書は、旧約聖書と新約聖書からなっています。約は、契約を意味しています。

旧約聖書のテーマは、神と人との旧い契約。これは、十戒を守ることによる救いをいいます。十戒を読みましょう。(旧約聖書 出エジプト記20章)

第1戒〜日本は八百万の神、鰯の頭も信心からと何でも神様にしてしまいます。福岡の勝鷹水神には王元監督のサインボールが御神体だそうです。第2戒〜私の家は、無宗教でしたが、祖母は神棚に拝んでいました。祖母は、死ぬ前にイエス様を信じて、シオン山バプテスト教会でお葬式をしました。祖母が召されて、神棚をどうしようかと思いましたが、祈って処分しました。第3戒〜神様を利用してはいけない。第4戒〜礼拝を守る。第5戒〜父母を大切にする。第6戒〜命の大切さ。第7戒〜結婚以外の性の関係。第8戒〜盗みを禁じる。私は、小学校の12年生の頃だったと思いますが、近くの駄菓子屋さんで、お菓子を盗みました。家に帰ってから、知られたのではと恐くなりました。献身してから、自分の罪の悔い改めをしなくてはと思い、そのお店に行きました。経営者は変わっていたようでしたが「あの小学校の時にこちらのお店でお菓子を盗んでしまいました」と言うと、「いいから。いいから」と赦して下さいました。第9戒〜嘘は人間関係を壊します。第10戒〜自分の良さを見つめる。人と比べない。十戒を全部守ることができるでしょうか?私には、出来ません。

新約聖書テーマは、神と人との新しい約束をいいます。これは、イエスをキリスト救い主と信じることによる救いをいいます。今日の聖書は、かつて、イスラエルの人々が、荒れ野で40年間放浪生活をしていた時のことです。イスラエルの人々は、作物を作ることはできませんでした。神様は、天からマナ(パンのようなもの)を天から降らせて、それによって養われました。(申命記83節)韓国の牧師が、40日間の断食をしたと聞いたことがあります。人間の限界でしょう。人間は食物を食べなければ死んでしまいます。では、私達の心はどうでしょう。神の言葉を頂けなければ、心が死んでしまいます。日本は、経済大国であり、世界一の長寿の国です。食べる物は豊富にあります。世界のグルメ大国です。しかし、精神はどうでしょうか?一方ガーナというアフリカの国があります。ガーナは、70パーセントがクリスチャンだそうです。が、世界の中でも最貧国の中に入るほど貧しい国です。1日1食しか食べることのできない人がたくさんいるそうです。しかし、ガーナの人は、食べ物がなくても賛美し、ダンスをするそうなのです。同じように、私達も心のパン(聖書)を頂いて生きることにより、心が養われて行きます。

 

 

第2回 礼拝

「神は、霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理を持って礼拝しなければならない」 ヨハネ4:24

 神様は、霊である。と聖書は語っています。「霊」と聞くと、幽霊とか心霊などの恐いものを想像します。しかし、聖書で語る「霊」とは、プニューマ(ギリシャ語)ルアハ(ヘブライ語の風、息)と言い、目に見えない神様の本質のことを意味します。(ローマ1:20)

 どうして目に見えない神様を信じるのですか?という質問をされます。しかし、目に見えないものは、たくさん存在します。空気、ガス、電気などがあります。何よりも私達の心は目に見えませんが存在しています。そして、私達は、「霊と真理をもって」礼拝にのぞまなければなりません。これは、私達の目に見えない真実な心で礼拝に参加することを言っています。この「真実」の言葉の意味には、「ありのままの」という意味があります。「ありのままの」私が神様の前に出ることが大切なのです。私達は、親子でも夫婦でも分かり合えない(不可交信性)所があります。そのゆえに礼拝では、私達が神様の前にひとりで出ることが大切なのです。

 この聖書のか所には、サマリヤの女が登場します。彼女には、5人の夫がいました。これは、愛に飢え渇いている女性を意味しています。人間ではうめることのできない愛「生ける水」をイエス様が下さるのです。それを頂くのが礼拝です。

 礼拝の内容ですが、まず賛美。礼拝は、自分でするのではありません。神様の招きによって成立するのです。(マタイ11:28)神様の愛に応答し心から賛美しましょう。

 聖書は、神の言葉です。この聖書の成立においては、まずイエス様に実際にあった人達の口伝が資料になり、編集され、写本として書き写され、各国の言語に翻訳されていきました。また、聖書は、ベストセラーであり、年間60億冊も印刷されています。また、2800以上の言語に翻訳されています。

 説教は、神の言葉の説き明かしです。自分勝手な解釈は間違っていきます。2000年の教会の歴史の中で正しく伝えることが説教者の務めです。私達は、御言葉を通して神の声を聞くのです。

 祈りは、神との対話です。祈りの最後は、「この祈りを主イエスキリストの御名によってお献げします」と結びます。これは、イエス様の十字架によって私達の罪が赦されて祈りが届くと言う意味です。

 主の祈りは、主イエス様が教えて下さった祈りの見本です。

 献金は、御言葉に応答して献ゲます。

その他にも報告など意味があって礼拝の式次第の中に組み込まれています。また、聖餐式は、イエス様の十字架によって裂かれた肉と血を意味した、パンとぶどうジュースを頂くことにより、私達の罪が赦され、キリストの体に繋がって生きることを意味しています。

 

 

第1回 神の愛1、聖書の中の聖書

「神は、その独り子をお与えになったほどに、この世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)

聖書を読む時に注意をしなければならないのは、まず神が愛である。というパスワードを用いて読まなければ間違って読んでしまう危険があります。カルトと言われる団体も聖書を用います。しかし、間違った解釈をしているのです。例えば、マタイ5:29,30をそのまま読めば、目や手は無くなってしまいます。またヨシュア記6章などを読めば、神様は滅ぼうことを命じておられる戦争を認める神様になってしまいます。

 まず第1に神は私達を愛していられると言う事です。「この世」に自分の名前を入れて読みましょう。神様は、私達一人一人を愛して下さっています。

ギリシャ語の愛には、4つ愛を表わす言葉があります。.侫リア友愛▲好肇蹈押漆道劼琉Νエロス男女の愛これらの愛は、人間の愛です。限定的、条件付きです。しかし、い離▲ペー。神の愛の特徴は、犠牲の愛です。神の愛は、「独り子をお与えになった」という十字架の愛です。

どうして神が犠牲を払わなければならなかったのでしょう。それは私達人間の罪のゆえです。(ローマ3:10)聖書の罪は、罪と言う言葉は「ハマルティア」的とを外れるという意味で、犯罪のことではありません。「神様なんかいらない。自分で生きて行く」神と共に生きていない事を言います。神様は愛の神ですが、義の神でもあるのです。それで、独り子なるイエス様を十字架につけて私達の罪を帳消しにして下さったのです。神様は独り子なるイエス様を十字架につけるほどに私達を愛して下さっているのです。痛みの愛です。

マザーテレサは、聖会の中の最も貧しい所に行きなさいとも神の召しに従いインドの貧民街で死にかけている人たちの世話をし、ノーベル平和賞をとりました。そのマザーですら、自らの闇に苦しんだということなのです。

私は、中学1年生の時に通っていたミッションスクールの特別伝道集会の時にイエス様を信じました。その頃、夜寝る前に死んだらどうなるのだろうと思って恐かったからです。イエス様を信じたら永遠の命が頂ける。イエス様を信じたら天国へ行ける。イエス様を信じますと信仰告白をして、クリスマスにシオン山バプテスト教会の荒瀬昇牧師からバプテスマ(洗礼)受けました。